オープニング タイトル

自己紹介



俳優 村上正明の自己紹介をさせてもらいます。

『基礎データ』と、『おいたち 子供編』と、『おいたち 大人編』との、3部構成でお届けします。



CONTENTS

第1部 【基礎データ】

第2部 【おいたち 子供編】 生まれて〜18歳まで

第3部 【おいたち 大人編】 18歳〜俳優を目指すまで




第1部 【基礎データ】
芸名村上正明(むらかみまさあき)。本名も同じ。
生年月日1968年(昭和43年)3月30日(土)午後2時すぎ生まれ。
未婚/既婚ちょー独身。結婚歴まるでなし。
身長・足身長177cm。27.0cm。
体重・脂肪率体重80kg。21%。
原産地愛媛県新居浜市。
現住所横濱市保土ヶ谷区。
趣味麻雀、カラオケ(J−POPおたく)、ドライブ、釣り(最近ブラックバス専門)、ゴルフ(金食い虫)、旅行(国内ONLY)、お散歩(山下公園や横浜MM21地区etc)。
好きな漫画ドラえもん、いなかっぺ大将、サザエさん(毎週じゃんけんが楽しみです)、ゴルゴ13、ブラック・ジャック。
長所明るい(というよりハシャギすぎ)、心が大きい(まず怒らない)、ねばり強い(というよりしつこい)、思考回路は前向きにできている。
短所気が弱い、朝が弱い、ついでに頭も弱い。
特技自転車の両手放し運転、ルービックキューブ、スーパーで買物の時はいつも暗算で消費税まで計算してレジに丁度のお金を握って並ぶ、POWER POINT、UFOキャッチャー、ドレミファドン



第2部 【おいたち 子供編】 生まれて〜18歳まで
1968年(昭和43年)3月30日【0歳】父・省二、母・国代の長男として、愛媛県新居浜市で生まれる。
1972年(昭和47年)4月【4歳】みどり保育園入園。
1974年(昭和49年)3月【6歳】みどり保育園を優秀な成績で卒園。
1974年(昭和49年)4月【6歳】新居浜市立金栄小学校入学。
1975年(昭和50年)【7歳】小学2年生の時、同じクラスの村上ゆう子ちゃんに初恋
1976年(昭和51年)?月【8歳】小学3年生の時、学校でうんこをもらす。
1977年(昭和52年)?月【9歳】小学4年生の時、生まれて初めてUFOを見る。
1978年(昭和53年)4月【10歳】小学5年生の時、将棋クラブに入る。
1979年(昭和54年)4月【11歳】小学6年生の時、まんがクラブの部長を務める。
1979年(昭和54年)5月【11歳】小学6年生の時、高知へ修学旅行に行った。行きのバスの中でジュディオングの魅せられてを歌った。
1980年(昭和55年)3月【12歳】新居浜市立金栄小学校卒業。卒業式の日に、近所にある滝の宮公園の池で、ボートに乗ってて転覆した。弟の昇平が溺れかけた。
1980年(昭和55年)4月【12歳】新居浜市立南中学校入学。バスケットボール部に入部。
1981年(昭和56年)8月【13歳】中学2年生の時、ポートピア博覧会に行った。三菱未来館が良かった。
1981年(昭和56年)10月【13歳】中学2年生の時、京阪神へ修学旅行に行った。京都でタクシーでの自由行動があり嵐山博物館・坂本龍馬の墓・ここはお国の何百里碑etcを見に行った。
1983年(昭和58年)3月【15歳】新居浜市立南中学校卒業。先生にお礼参りはせず。バスケットボール部ではとうとう補欠のままだった。
1983年(昭和58年)4月【15歳】愛媛県立新居浜東高等学校普通科入学。受験番号は93番だった。友達の曽我君にクサーっと言われたのでよく憶えている。登山部に入部。
1984年(昭和59年)7月【16歳】高校2年生の時に、諏訪・山梨・静岡・東京へ修学旅行に行った。生まれて初めての花の都大東京であった。クラスの修学旅行責任者を務めた。サザンのミスブランニューデイが流行っていた。
1985年(昭和60年)1月【16歳】高校2年生の時の元旦に、欽ちゃんの仮装大賞に出る。おしくも13点だったが、山本晋也監督がベタぼめしてくれた。ついでにこの日のズームイン朝にもちょこっと出た。
1985年(昭和60年)10月【17歳】高校3年生の時に、体育の授業中に左手首を骨折。すぐ病院で簡単な手術をした。その時、麻酔は必要かと聞かれたが、その日一日ごはんが食べれなくなると言われたので、麻酔無しでやった。気絶寸前の痛みの手術だった。痛みに耐えきれず暴れないように、看護婦さん5人(みんな若かった)に体を押えられての手術だった。それはそれで良かった。
1986年(昭和61年)1月【17歳】高校3年生の時に、共通一次受験のため2泊3日で松山まで、学校の受験者全員で泊りに行った。そこのホテルで女風呂を覗いた。友達の中には道後温泉のソープに行ったやつもいた。受験結果はサンザンだった・・・。
1986年(昭和61年)3月【18歳】愛媛県立新居浜東高等学校普通科卒業。受験は全部で10大学程受けて合格はたったの2つ。


第3部 【おいたち 大人編】 18歳〜俳優を目指すまで
1986年(昭和61年)4月【18歳】岡山理科大学理学部応用物理学科入学。それも2次募集のギリギリ入学。サークル活動は情報処理研究部に入部。
1987年(昭和62年)10月【19歳】第二種情報処理技術者試験合格
1987年(昭和62年)11月【19歳】大学祭大成功の後、サークルの教育担当に就任。
1988年(昭和63年)4月【20歳】四国島民念願の瀬戸大橋開通。同時に宇高連絡船廃止。最後の連絡船、最初の瀬戸大橋線電車に乗り、友達の詫間君が大暴れする。
1989年(昭和64年)1月【20歳】天皇陛下崩御。岡山の池田邸へ記帳に行く。昭和から平成へ。
1989年(平成元年)3月【21歳】苦学生の勲章『留年』を実現。
1990年(平成2年)3月【22歳】苦学生の勲章『留年』を2連覇達成。親から逃げるため東北一周旅行に出かける。
1991年(平成3年)春【23歳】計算ミスにより、トイレへの距離と時間を誤る。結果、キャンパス内でうんこをもらす。脱糞は、生涯これを最後にしたい。
1992年(平成4年)3月【24歳】やっとの思いで岡山理科大学理学部応用物理学科卒業。卒業証書の値段は、授業料やら仕送りやらバイト代を合わせると、なんと1500万円だった!?
1992年(平成4年)4月【24歳】四国日本電気ソフトウェア株式会社(本社:松山市)入社。エリートサラリーマン活動開始。医療関係のコンピュータシステムに携わる。まさか将来脱サラし俳優を目指すなど、この時は考える由もなかった・・・。
1993年(平成5年)2月【24歳】NEC(日本電気株式会社)へ転勤入社。金融システムの仕事を担当。四国から東京へと生活圏が変わる。この転勤をきっかけに、俳優を目指す環境が徐々に整い始めた。
1993年(平成5年)11月【25歳】農林水産マーケット担当の営業マンになる。出張の毎日。特に秋田のきりたんぽ鍋がうまかった。
1995年(平成7年)6月【27歳】安い給料を必死でためて、念願のMercedes-Benz 230E(92年)を買う。当然中古。
1996年(平成8年)心地よい季節【28歳】秋田への出張中、営業車で海岸線を走っていて途中でうんこがしたくなり、トイレがなかったんで、浜辺で野グソをした。広い日本海を眺めながら開放感いっぱいのうんこであった。海水で手も洗えて便利だった。誰にも見られていなかったはず・・・。
1996年(平成8年)8月【28歳】愛媛に車で帰省中、大阪でヒッチハイクさせてあげた。カップルの2人だった。名前はジュンペイくんとチャコちゃん。23,4歳だった。大阪→新潟までヒッチハイクのみで行くと言ってた。今も元気にしてるかなぁ。ちなみに乗っけた距離は10km程。あんまりお役にたてなくて申し訳ない。
1996年(平成8年)秋頃【28歳】田舎の暮らししか知らなかったおいらは、せっかく東京にいるんだから、東京でしかできない商売ってものに、以前からかなり興味を抱いていた。前々から役者・芸能の世界に少し興味があったおいらは、一度門を叩いてみようと決意した。ダメでもともと、ただ挑戦もしないままだと将来必ず後悔すると思った。田舎にずーっといたら、決して発想もしなかったであろう職業である。
1997年(平成9年)2月【28歳】澤井プロダクションの新人オーディションに応募。澤井社長に拾ってもらえた。澤井プロにいる40人ほどの役者のタマゴの仲間入りができた。
1997年(平成9年)7月【29歳】二足のわらじはいけないと思いNECを退職(半分クビみたいなもの)。澤井プロと並行していたサラリーマン生活にピリオド。修行中の身で、収入はほとんどゼロの状態での新しい生活の船出となった。
現在まだまだ俳優修行の身。SOHOでのCGIプログラマとして生活はしのいでます。そんな中、ありがたく役者のお仕事をいくつか頂いています。
この先は、芸歴を参考に!!





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